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「京都・南禅寺」

2024.11.10

暦の上では立冬を迎えて朝晩の気温も徐々に下がり始めています。周辺の木々も色づき始めていますね。★私たちはこの時期になると京都で開催される仏壇・仏具の展示会に出掛けます。仏壇やお位牌をはじめ仏具、陶器、念珠、仏像、金襴、掛軸、お線香、ローソクなど多くのメーカーが出品するので私たちにとっては欠かせない展示会となっています。今回は新たな仏具の展示も多く、時間を掛けて丁寧に見学させていただきました。★また、展示会のあと僅かな時間でしたが南禅寺を拝観しました。南禅寺は臨済宗・南禅寺派の大本山で、臨済宗の中でも極めて高い格式を持つ寺院となります。画像は南禅寺の入り口にある三門回廊から北山方面を撮影したものです。京都の町並みは風情がありどこの風景も素晴らしいのですが、この三門からの眺めも絶景のひとつと言えるのではないでしょうか。★南禅寺の三門は永仁三年(1295年)に建立され、応安年間に改築されたものの、文安四年(1447年)の火災で焼失。現在の三門は寛永五年(1628年)、大坂夏の陣に倒れた将士の菩提を弔うために再建されたそうです。歌舞伎「楼門五三桐」に登場する石川五右衛門の「絶景かな 絶景かな」という有名な台詞はこの三門からの眺めがもとになっていることで知られています。始めて訪れる方にとって、ここからの眺めはちょっとしたサプライスですね。

「月照寺と松平家の宝」

2024.10.30

朝晩はすっかり気温も下がり秋の訪れを感じるようになっていますね。行楽や美術鑑賞などに適した季節を迎えて、様々な秋のイベントも開催されているようです。★私も先週は仕事の合間をみて、松江歴史館で開催されている「月照寺と松平家の宝(10/4~11/24)」という特別展に出掛けました。「月照寺」は松江松平家の菩提寺で、画像の松江城下町絵図(1628年~1633年/特別展図録撮影)では西方の山手に位置しています。季節になると境内一杯に紫陽花の花が咲き誇ることで知られていますね。今回は狩野永雲作の「涅槃図」や「十六羅漢図」、初代直政公の廟所に奉納された花瓶など、一度は見ておきたい宝物が展示されていました。できれば合せて実際の月照寺にも足を運びたいものです。月照寺の境内にある廟門をはじめとした江戸時代の建築物は見事で、境内そのものが宝物と言えるのではないでしょうか。★松江城下町絵図の解説文によると、慶長16年(1611年)にはすでに松江城天守はすでに完成しており、城下町もほぼ出来上がっていたとあります。橋北では殿町から北田町、北堀町から石橋町、あるいは中原町から月照寺周辺にかけての家名が、また橋南では寺町周辺の寺院名等が記載されています。この絵図は400年ほど前のものになりますが、町の基本的な構図が現在と殆ど変わっていないのも興味深いですね。

「松江祭鼕行列」

2024.10.22

今日の松江は朝から小雨が降り続く天気となりました。風は冷たく、日中の最高気温もそれほど上がらない予報になっていますね。★10月20日(日)には心配されていた雨もあがり、無事に「松江祭鼕行列」が開催されました。松江城大手前に集合した鼕宮は16台。それだけでも見応えがありますが、町内ごとに受け継がれる鼕の響き、笛の音、それにチャンガラと子供達の掛け声が加わり、その光景は華やかで集まった観衆を惹き付けます。当日は、やや風も強く肌寒く感じる気温でしたが、松江城大手前から橋北の街を通り、松江大橋を渡って白潟天満宮までを練り歩く華やかな姿に沿道の人々は惜しみない拍手を送っていました。★鼕行列の歴史は古く京都で行われていた「左義長(さぎちょう)」という正月行事に由来するそうです。江戸時代には小正月の「とんど」行事で歳徳神の宮を担ぎ、太鼓を叩いて笛やチャンガラで囃し、五穀豊穣を願い町中を練り歩いていたようです。現在のような形態の「鼕の行列」は大正四年(1915年)大正天皇の即位の御大典の折に各町が「大鼕」を載せた宮台に車輪を付けて数十町内が練り歩いたのが始まりと伝えられています。★歴史のある祭りとはいえ、時代を超えて後世に伝えてゆくことは簡単なことではないと感じます。しかし、今年もやはり素晴らしい鼕行列でした。この祭りを守り受け継ぐ人々の熱意には驚くばかりですね。

「南天竺」

2024.10.20

国民の90%が仏教徒といわれるカンボジアでは旧暦の10月にお盆を迎えます。同じ仏教国でもお盆の時期が異なるのは不思議ですね。★京都市の「乗顔寺」には熊本藩主・加藤清正に仕えた武将、森本義太夫の位牌が残されています。その次男は「森本右近太夫一房」。右近太夫一房は江戸時代の鎖国令が出される前の1632年(寛永9年)、遙か遠い日本から海を渡りカンボジアのアンコールワットを訪れ、父母の幸福を願い四体の仏像をここに奉納したとされています。★しかし、当時の日本人はカンボジアのアンコールワットを仏教の聖地である「祇園精舎」と間違えて解釈していたようです。「祇園精舎」とは中インドのコーサラ国の首都シュラーヴァスティーにあった寺院のことで、釈尊が説法を行った場所。本当の祇園精舎がインドにあるということが分かったのは何と19世紀の幕末の頃だったとか。★なぜ江戸時代の人々はアンコールワットをインドの祇園精舎と間違えてしまったのでしょうか? 当時、カンボジアの密林の大地に広がるアンコールワットは東南アジアにおける仏教信者のメッカ的な聖地となっていたようです。それほど確かな情報のない時代でもあり、日本人が朱印船貿易などで交流のあったカンボジアを訪れた際に、壮大な規模のアンコールワットの寺院群を見て「祇園精舎」と勘違いしたとしても無理のないことだったのかもしれませんね。